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2008年度米は完売しました。ありがとうございました。

高橋剛物語

高橋 剛 (たかはし つよし)

昭和21年、真室川町生まれ。 昭和60年から3年連続して山形県良質米多収穫共励会で最優秀賞を受賞。昭和63年には、化学肥料や農薬を用いた農業と決別し、徹底した有機栽培に転じる。以降、一貫して自然農法による米作りを実践。技術指導は国内に止まらず、ロシア、オーストラリア、中国、フィリピンに及ぶ。

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1. 無鉄砲な少年時代、結婚、そして働きずくめの20〜30代

見た目はちょっとイカツイが、甘えのきく、われらの兄貴。少々無鉄砲でかなりの頑固者であるが、正義感が強く曲がったことが大嫌い。
子供の頃から人一倍の負けず嫌いで、かけっこ一番、ケンカも一番、でも、勉強は・・・? 神社の御神木に荒縄を巻いて一人で空手の稽古をしていた。高校時代は同級生数人と大喧嘩をしてしまい京都修学旅行に連れて行ってもらえなかった、という悲しいエピソードもある。そして今でも「京都」と聞くと悲しい思い出が蘇って寂しくなるらしい。
思い切り殴れると言う事でプロボクサーを目指し上京。天性の運動神経と持ち前の負けず嫌いの性格で6回戦ボーイにまでなり、ボクシングの殿堂後楽園ホールのリングに立つ。57歳になった今でも強そうな人を見ると元ボクサーの血が騒ぐらしい。負けず嫌いの性格は現在でも変わらず、仕事で負けるのも、酒飲みで負けるのも大嫌い、根っからの勝負師だ。
上京後もまじめに働くはずもなくバイクを乗り回し夜遊びに専念し借金まみれ。東京に居られなくなり実家の山形へ戻るが、生活は変わらず借金取りに追われる毎日。挙句の果てはお父様が田畑を売って返済する羽目に。この時ばかりは殺されると思ったくらいスッコプで殴られたそうだ。高橋剛18歳の夏。
ここまでヤンチャをしたら心を入れ替え父親の跡を継いで農業一筋となるのが普通だが、この男、普通ではない。その後、家出を繰り返す事数10回。家を出るたび母親の泣いている姿を思い出しては再び家に戻る、という母親思いのやさしい子でもあった。その影響か今でも女性には全く弱く、やさしい。
23歳で結婚し、25歳のとき長男直樹氏が誕生、勝利(かつとし)と命名しようとするが両親の猛反対により断念。この男どこまでも勝ち負けにこだわりたい。 
当時、東北の農家は米作りだけで生活するのは到底無理。稲刈りが終われば現金収入を得るため出稼ぎに出るのが当たり前の時代だった。当然、高橋も家族をつれて出稼ぎにでる。責任感と正義感の強いこの男、家族を養うためにバスの運転手や除雪のアルバイトまでこなした。その間、長女裕子さんが生まれ溺愛するが、農業と出稼ぎとアルバイトという激務生活のため一度も旅行に連れて行くことすらできなかった。今でも当時を思い出し、「子供たちには全く楽しい思い出を作ってあげられず、かわいそうな思いをさせた。でも、一生懸命働くしかなかった」と話す。初孫(男の子)誕生の時には誰よりも喜び、今でも一緒に寝ているらしい(笑)。そんな働きずくめの日々は15年間つづき、高橋剛40歳の時、遂に転機が訪れた。

2. 思わぬ濡れ衣からついに目覚める

高橋剛40歳の秋。
今日も嫌々農作業をしていると、男が近づいてきて「剛、なかなか良い米を作っているじゃないか。多収穫に出してみないか?」と言われる。本人は良い米を作ろうなどと言う気は全く無く、生活のためだけに仕方なく米作りをしているだけだから全く興味が無い。しかし、この農協職員のひと言が、高橋の農業に取り組む姿勢をその後、大きく変えることになる。
発表当日、会場には1位をめざしてこの日を待っていた農家の先輩方が並ぶ。そんな中で一番後ろに座った高橋。ついに発表の時がきた。「今年の多収穫1位は高橋剛さん!」。そう会場に響いた途端、その場にいた全員から「なんであいつが?」という冷たい視線を浴びた。嫌な噂も広まった。「農協に圧力をかけたらしいぞ」、「金を使ったらしい」と。無名で実績もない百姓が1位を取ったからだ。身内である父親からも「お前どんな汚い手を使った?」と疑われる始末。だが、その周囲の冷たさが高橋の負けず嫌いに火を着けた。「身内からも信用されないなら、来年も絶対多収穫1位を取って見返してやる!」。やると決めたら一直線の男。それからというもの連日、図書館へ通い詰め農業に関するあらゆる書物を江戸時代まで遡って読み漁ることになる。
こうして米作りの勉強はしたがこれまでと同じことをやっても単なるコピーにすぎない。これ以上はないといわれる米を作りたい。そう考えた末、高橋の脳裏にあることがひらめいた。
「稲を鍛えよう!人間と同じように、稲も温室育ちだと弱くなってしまう」
米の栽培では通常、「芽出し」といって、ぬるま湯に種子を入れ、少し発芽させた状態で種子を蒔く。が、この時、彼がやったのは水を入れた桶の中に雪を割りいれ、種子に厳しい条件を与えたのだ。驚くことに、その条件下でも種子は芽を膨らませた。それは真に種子の持つ無限の生命力を痛感させられる出来事だった。
種子同様、苗も傍らに雪が残る苗代で自然のままに育てた。その苗は見るからに活力があり、病気など寄せ付けそうにない。収穫期たわわに実った稲穂が、種苗期に培われた生命力を物語っていた。
昨年まぐれで取った1位。その翌年、高橋は断トツの収穫量で1位を獲得。自ら誓った2連覇を達成し、もはや嫌味を言う者もいなかった。そして、今まで嫌々ながらやっていた農業が楽しくてたまらなくなってきた。
高橋はいまでも私達にこう言います。「仕事は楽しくやれ、楽しくやったらいい仕事ができる」と。
調子づいたら止まらないのがこの男。その翌年も1位を獲得し、見事に3連覇。普通なら有頂天になり、「もうこれでいいや」と思いそうだが、高橋は自らをさらに進化させるある重大なことに気づきはじめていた。高橋剛43歳。

3. もう俺たちは負け犬じゃない!

「米が美味くない!」
多収穫コンテストに3年連続優勝し、誰もが一目を置く存在になっていた高橋であったが、米の味が悪くなっている事に気付き始めていた。収穫量だけを追い求め、ためらいもなく化学肥料や農薬を使うことで品質がおろそかになっていたのである。
「まずい米をいくらたくさん作ったって何の意味も無い。日本一おいしくて、安心して食べてもらえる最高の米作りを目指そう」
また新たな目標ができた。やると決めたら一直線。剛は地元の先輩農家にも意見を求めつつ、再び農業の勉強に取り組む。そして辿り着いたのが日本古来自然農法−−微生物によって発酵させた農業資材(ぼかし肥料)で徹底的に土作りを行うという農業技術だった。この発酵農業資材作りのノウハウが後に「バランスα」の開発に生かされることになる。今でも大好物のビールを指差して、「この色なんだよなぁ、最高のぼかしは。この色じゃなきゃダメなんだよ」と頷きながらグビグビとうまそうに飲み干すのである。
こうして昭和63年、真室川町有機無農薬組合を結成! と言えばカッコイイが他の農家は誰一人参加せず、親戚だけの7名でスタート。やはり、チャレンジ精神旺盛な高橋らしい船出であった。一度、こうと決めたらとことんやる高橋は、まず化学肥料や農薬で汚染されていた水田用の水源を微生物の働きで徹底的にきれいにすることから着手した。
「農業は水が命なんだよ、どんなにすぐれた農業資材を使っても水が汚染されていたらダメだ。微生物の持つ力を最大限まで引き出すにはまずは水環境からなんだよ。だから水稲って書くんだ、簡単だろ。川がきれいになれば夏にはアユ取りも楽しめる、おかげで真室川は東北一の清流といわれるほどきれいになった(注)。まったく言うことなしだろう。アッハハ」
水を浄化したら次は土だ。これも微生物を使い汚染物質を分解、浄化した。
「畑仕事が終わると、微生物たちに『あとはたのんだぞ!』って頭を下げてから帰るんだ。わからないだろうなぁ、この気持ち」
高橋が微生物を語るとき、まるで信頼できる友だちの事のように話すのである。それからは次々と仲間が増え始め、これまでの経験と知恵や、生まれ持った天性のカンとひらめきによって、無農薬と無化学肥料でもそれまで以上の収穫量を誇れるようになった。
ちょうどそのころNHKテレビで、『冷害でもおいしい米を豊作にする農業経営者』として高橋が紹介されることとなり、その名は山形にとどまらず、広く全国に知られるようになって各地から米の注文が殺到した。そこで剛はまたもひらめいた。
「自然農法が普及すればいままでの農協主導や機械メーカー主導の米作りから農家主導の米作りになり、言いなりだった米の値段も農家主導になるかもしれない。そうすりゃこれまでやられぱなしだった農家の意識も変わるはずだ。もう俺たちは負け犬じゃない!」と。

(注) かつて真室川(最上川上流域の支流)は、農薬で汚染され、奇形魚が捕獲されて問題になったこともあったが、高橋の働きかけにより、自然農法を取り入れる農家が急増した結果、いまや東北一の清流(全国7位)として、環境省にも認定されている。

4. ロシアでの農業指導、バランスαの開発、そして

NHKテレビで「冷害でもおいしい米を豊作にする農業経営者」として紹介されると、高橋の名前は全国に知れわたり、農業指導や講演の依頼が殺到し、一躍時の人となった。
依頼があれば全国どこへでも出向き、農業現場を指導し、高校、大学でも講演するようになった。当時のこんなエピソードがある。高校での講演終了後、体育館で意気投合した生徒達と酒を酌み交わし、先生方から大目玉をくらった。
「俺は少々やんちゃな奴が好きなんだな、かわいいんだよ、そういう奴って。奴らの気持ちはよくわかる」
今も変わらずやんちゃ盛りの高橋は気合を込めてこういう。
「農業も俺の真似じゃダメ、単なるコピーじゃだめなんだ。工夫してもっと上を目指さなくちゃ。ただ微生物をばら撒けば豊作になる訳じゃない。化学肥料と違って生き物だから簡単で万能というわけにはいかないが、真剣に付き合えば最高のパートナーになってくれる」
国内各地を農業指導する日々が続いたある日、思ってもみなかった依頼が舞い込んできた、ロシア(当時ソ連)から農業指導の依頼である。大きいことが大好きな高橋は、太陽が地平線から昇り地平線に沈む雄大な大地をみて興奮した。国際環境保護団体グリーンピースが監視するバイカル湖は世界遺産であり、全く汚染されてない最高の水があった。畑にスプリンクラーもあり申し分がない。温度、気候、降水量、日照時間、土質は事前に研究済で、あとは持ってきた10Lの農業資材を拡大培養し散布するだけ、楽勝と思った。ところが、その培養に用いる糖蜜を忘れていた。
「あの時は『シマッタ!』と思い本当に困ったよ。あのままじゃ日本に帰れないもんなぁ。そんなとき昼間から酔っ払って街中をウロウロする人たちを見てひらめいたんだ。酒かすがあるはずだ、それを持って来いと!酒かすは最高の有機物だもんなぁ、会心の一発っていうやつだったな、あの一件は。アッハハ」
こうして農業資材の培養に無事成功した。その後ロシアの小麦生産量は高橋が農業指導する以前の5倍になった。
平成7年には農家の代表としてJAS法の基準作りに参加し居並ぶ農学博士ら研究者に向かってこう噛みついたこともある。
「先生がた! 研究所にある花壇のような小さな田んぼで米作りの実験したって一体何がわかるんだ。現場に来い!」
その後、高橋が作る完全無農薬自然農法米にはEM技術が応用されていく。
山形の高橋が作る発酵資材が、抗酸化飲料「EM-X」の原材料として沖縄の工場へ提供されることとなった。しかし、高橋はEMの技術がまだまだ完成された技術ではない、特に微生物については更なる研究と実践が不可欠、発展途上の考え方であると思っていた。
「EM-X」の普及を勧められた高橋は、もっといいもの、自分なりに納得がいくものを作ってみたいという気持ちが抑えきれなくなった。そして後先を省みず、後に「俺の人生の中で最高傑作!」と言い切った「バランスα」の開発に踏み切っていた。高橋剛50歳。無謀なチャレンジ精神まだまだ衰えず!


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